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筒井康隆著『虚航船団』(近藤義一)
* ハーラン・エリスン著『世界の中心で愛を叫んだけもの』(ハジメマコト)
* 原さとる著『地底元年』(オロチ丸)

    筒井康隆著『虚航船団』(近藤義一)
 ども、近藤です。
 書評させていただくのは筒井康隆著『虚航船団』。発表されたのは一九八四年。もうそんなになるのかあ。
 近藤がはまったのは二十歳前後、若かったなあ。
 
 ここで、書評と紹介文、あるいはレビューとの違いについて、近藤なりの立場を明らかにしておきたいと思います。くだくだ言い訳すんなよ、と思った人は飛ばしてください。
 とはいえ書評、評論とは、評価/コメントあるいは紹介文をもっと丁寧にしたもの、としか言えないのではないでしょうか。褒めるにせよ、けなすにせよ、五行十行では誰も評論だとは思ってくれない。じゃあ、長く書けばいいのか。
 乱暴だけど、近藤としては「いい」。自分でお話を書くとき、説得力を持たせようと思えばそれなりに手間がかかる。これだけ手間をかけました、評論として認めてください、というのが作者に、あるいは読者に対して失礼のない態度だと思われます。
 と、書いてみても自分でも疑わしい。実際は迷いながら進めていきます。
 
 で、よりによってこの本を選ぶとは、自分でもどうかしていると思う。著者には他に、こういう場での書評に適した作品が山ほどある。
 作品が発表された当時の大騒ぎぶりは同じ著者の『虚航船団の逆襲 (中公文庫)』に詳しい。難しく読めば難しいし、そもそも当時の文学界に喧嘩を売るような作品でもあり、なにより新しい文学作品、二十年経っても新しいかもしれない、新しいものは理解するのが大変で、一介の素人が評論するのに手に余るのは目に見えている。
 でもやらなくちゃと思ったのは、一番好きな作品だからでしょうか。評論と言うのがあくまで「公正な立場という仮面」を被らなくちゃいけないと思っている人には、とんでもない話でしょうが。

 で、まずは作品のあらすじを手際よく説明するのが手順だとは思いますが、『フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」』に、みごとなものが掲載されていて、書く気をなくし、また心強くもあり、そもそも苦手だし、そちらを読んでいただいたほうがいいかと思います。
 それじゃあんまりなので、ざっと書いてみると、全体は三章に別れていて、第一章では長い時間をかけた宇宙船での航海の果てに精神が病んでいる(と思っている)文房具たちが起こす騒動が描かれる。第二章では、その文房具たちが殲滅を命じられた流刑星でのイタチの歴史が記される。第三章では大殺戮。時間も場所も読み手も書き手も超えて、大変な騒ぎが起こる。
 そっけねえなあ。あらすじって難しいな。
 

 最初の一文。
 
 まずコンパスが登場する。彼は気がくるっていた。
 
 ここでまず読者は試される。近藤はすっと入った。友人はここでもうだめだと言った。どちらがどうとは言えないけど、最近の読者はあんがい抵抗なく入っていけるのではないでしょうか。
 もうちょっと読み進めると、文房具たちが抱えている障害に共感できるものがたくさんある。だめだと言った友人は、近藤が見ても立派な社会人であり、近藤は劣等人生を送っているせいもあるかもしれない。たとえばコンパスは、自分がいかにスマートに見えるかということに病的にこだわっているんだけど、何かと言うと人目を気にするくせに垢抜けない近藤には痛いほど分かる気がした。
 なぜ文房具なのかと言えば、誰でも日常接することの多い、ひとつのジャンルにくくられていて多彩な種類がある文房具は、物語を編むのに大変都合がいいからでしょう。この人たち、いや文房具たちは形をぼんやり見ているだけでもなんかお話が造れそうな気がしませんか。コンパスなんか、人間の足にしか見えない。
 著者は精神分析に詳しく、感情移入という人間の機能を文学的姿勢の第一に置いていて、だからこそ文房具が物語の主役になりうると提示した。人を文房具に置き換えただけじゃないか。それはその通りだと著者はともかく近藤も思う。でも、文房具がこれほど生き生きとしてくるのも(病気だけど)、文学以外の方法ではありえないじゃないか、とも思う。
 また著者は「人を(読者を)笑わせる」ことにも力を注ぐ人でもあります。ホチキスがココココココと口から針を吐き出しながらきりきりまいする、なんていうのは序の口で、あちこちに笑える要素(いささかならず黒い)がちりばめられています。
 とはいえ、身に覚えのあるようなないような症状の描写が続くので、いささか気が滅入るのも確か。
 救いはあんまりありません。これは全編を通じての感触。


 第二章で登場するのはイタチ。舞台である惑星クォールは流刑星であり、イタチを登場させたのは彼らが人間並みに獰猛な生き物だからだと、著者は対談の中で答えています(出展を明らかにするべきですが、試料が散逸してしまってどうにもなりません。申し訳ない)。
 全体を通じて、地球世界史のパロディ。高校世界史のレベルだと、翻訳家として知られる柳瀬尚紀との対談『突然変異幻語対談(河出文庫)』の中で説明しています。しかも、残虐史観に基づいたものだと。それだけに、まあ大量の人じゃないイタチが死ぬ。地球人類が千年かけてやらかしてきた残虐の歴史を、半分(筆者の感覚でいうと三分の一くらい)に縮めて記しているのだから、爽快です。
 世界史とはいえ日本の近代史も含まれていて、実際には洋の東西がごちゃごちゃになっています。いくらかでも読み解けたほうが楽しめるでしょう。くわえて、第一章が読みづらければ、第二章から読み始めたほうがいいというのが著者の意見です。確かに、なんにもないところから宇宙船だの文房具だの始めるよりは、世界史でイタチの方がまだしも親しみやすいような気がします。
 章の結びは、地球とは異なり核戦争が勃発してしまうところで。これについては筆者、思うところがあるのですが、後に回します。
 ともあれ、ここにも黒い笑いが満ち満ちています。パロディだけに抱腹七転び八起き。


 第三章はイタチの殲滅を命じられた文房具船が惑星クォールに降下し、破壊殺人活動を開始します。とはいえ著者の攻撃は(登場人物ではありません)あちらこちらに向いていきます。過去の文学作品たとえばヘミングウェイであったりジョイスであったりプルーストであったり、同時代の作家であったり批評家であったり著者の日常であったり日本の文学であったり果てはこの『虚航船団』という作品そのものであったり、ともかくありとあらゆる文学的なことがらが(つまり世の中の出来事すべてが)対象になります。攻撃と言っても批判ばかりではなく、尊敬も含まれていますが。
 この章が一番好き嫌いの別れるところではないでしょうか。近藤は著者寄りの考えですから苦はないのですが、著者本人のおそらく生の声が頻出する部分は、その時代のその著者を理解しない人には、なぜこういう書き方になったのかが分かりづらいと思われます。筆者にもさっぱり分からない部分があるくらいですから。
 この章の、この作品の最後は、すでに死亡しているコンパスとイタチとの間に生まれた混血児と、母であるマリナ・クズリとの会話で締められます。最後のページは四行。引用しましょう。
 
 「ねえ。お前はいったいこれから何をするつもりなんだい」息子はやっと顔をあげる。母親を見つめるその目は点いていないランプ玉のようでありまるで何も見ていないかのようだ。「ぼくかい。ぼくなら何もしないよ」彼はしばらくしてから鈍重に聞こえる低い声を咽喉の深い底から押し出すようにして答える。「ぼくはこれから夢を見るんだよ」

 思えば世はバブルの真っ只中。ある意味クォールよりも騒ぎが酷かった我が国がその後、ニートだの引きこもりだのという問題を抱えてしまった。著者は何かを予見していたのかもしれません、というのは贔屓の引き倒しでしょうか。


 核戦争について。同時代の作家についていえることかもしれませんが、核の恐怖や廃絶を訴える作家は、実は核兵器に対する憧れも抱えているのではないでしょうか。ボタンひとつで人類を破滅に追い込むことが出来る装置、それは確かに文学的な破局を考えるには都合がよいのですが、時代はクラスター爆弾だとか地雷だとか、より殺伐とした生々しい風景を想像させる(国内で暮らしている限りそれは想像の域を出ない。使われた国にしか理解しようがない)兵器を問題とし始めた。通常兵器であろうが核兵器であろうが大量に保有すれば行く先は一緒なのに、核ばかりをあげつらったのは、作家として惹かれるものがあったからではないかと、今回この評論を書く上で思い至った次第であります。

 やれやれ。なんとかやっつけた。筆者は新潮の箱入りハードカヴァーを開きましたが、現在は文庫の方が入手しやすいでしょう。原稿用紙で千枚近い作品、読み応えはありますし、何度も書いている通り読者に挑戦するような作品です。失業中とか停学中とかではなく長い夏休みがある幸運な人は、サブテキストなども漁りながらじっくり読まれてはいかがでしょうか。
 
虚航船団 (新潮文庫)
   参考文献
     虚航船団の逆襲 (中公文庫)
      著者 筒井康隆 
     突然変異幻語対談(河出文庫)
      柳瀬尚紀との共著
    ハーラン・エリスン著『世界の中心で愛を叫んだけもの』(ハジメマコト)
 鬼才、ハーラン・エリスンの短編集です。
 今回はその表題作、『世界の中心で愛を叫んだけもの』について。
 
 物語は一人の男、スタログの虐殺行動から幕を上げる。
 淡々と無差別に多くの人間達の命を奪うスタログ。その行動理由が一切明かされる事無く、彼は捕まりガス室での死刑宣告を受ける。
 その宣告の直前、彼はこう叫ぶ「おれは世界中のみんなを愛している」と。

 そして場面は唐突に変化します。
 時間と呼ばれる思考感覚の果て、空間と呼ばれる反射的イメージの果て、もうひとつの現在、どこか向こうにある此処、観念を超越した究極の中心――“交叉時点(クロスホエン)”。
 その私達には理解しがたい空間、時点、あるいは概念の中で、囚われた一匹の真紅の竜と、それを観察し対話する2人(2つ)の存在。
 彼らはその竜の“排出”について議論を繰り広げる。
 対峙の果てに、彼らが下した決断は世界に何をもたらしたのか?
 
 表題作『世界の中心で愛を叫んだけもの』は神話的な作品です。
 解釈や議論は今まで無数に生まれ、そしてどれも明確な答えに辿りつく事なく泡の様にホツホツと消え去っていったと聞きます。
 暴力の神話、現代のパンドラの箱。公式の作品紹介にある通り、この言葉こそがこの作品にはピッタリな言葉です。
 最後まで読んで、冒頭から読み返したくなったとしたら、あなたはこの作品の魅力とそこに見え隠れする壮大かつ残酷なテーマの虜になっています。

 他にも、エヴァンゲリオン2号機のモチーフにされた“プロメテス神話”を題材にした『名前の無い土地』や、
 残酷かつ暴力的なジュブナイルSF『少年と犬』など、様々な傑作(問題作?)が収録されています。
 機会があれば、この様な超越的作品を読んで、その難解さに酔いしれてみて下さい。

世界の中心で愛を叫んだけもの (ハヤカワ文庫 SF エ 4-1)
    原さとる著『地底元年』(オロチ丸)
 正直言って、僕は書評をした事がほとんど有りません。
 なので、『こんなのは、書評じゃない!』と思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、
今の僕にはこれが精一杯なので、ご勘弁を。
 
 今回書評させて頂くのは、原さとる著の、『地底元年』(毎日新聞社)です。
発行されたのが、一九七八年六月三〇日(多分ここで紹介されてる中で一番古い)。僕が生まれるずっと前です。
僕の父が、持っていた本で、帯も残っているのですが、ちょっと抜粋させて貰うと、
 
『巨大な地底空間の発見としのびよる地球冷凍化の兆し。日本民族の地底への収容は果して可能か。経済問題に精通する著者が具体的な数字と豊富な知識を駆使して描くSF巨編』
 
と、有ります。
 分類上はハードSFに分類される作品で、初めてキチンと読んだ時には、事実を小説にしているかの様な、錯覚を覚えました。
戦闘シーンも有るのですが、挿絵など全くないにも関わらず、脳裏に映像が浮かんできます。
 誰にでも進められる内容なのですが、恐らく絶版になっていると思います。図書館等にも有るかどうか分かりませんが、読む機会が有れば、是非読んでみて下さい。夢中になって、最後まで読んでしまうと思います。
 
 と、ここで締めるのもあんまりなのですが、今の僕には内容に見合った粗筋を書けないので、ここで締めさせてもらいます。原さとる先生、スミマセン。

地底元年 (1978年)
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