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SF薀蓄館

海洋SF

 海洋SFとは何か? 正確に定義せよと言われても困ってしまうが、漠然と考えれば海を舞台としたSFであると言えるような気がする。
 だいたいジャンルは、ジャンルを決める概念が先にたって成立するわけでなく、個々の作品の印象の集大成のようなものがジャンルとして通用している。だからある作品をジャンルに押し込む靴べらのような強引な分類が意味があるかどうかはわからないし、また、あるジャンルというものを強く意識して作品を作ることにも意味があるかはわからない。ジャンルが作品を裁くというより、できたものがジャンルを作ると考えたほうがのびのび作れる気はする。
 古典的な海洋SFにはジュール・ヴェルヌの『海底二万マイル』がある。またウェルズは『深海潜行』を著した。未読の方のために『海底二万マイル』の粗筋をざっと語ると、海中を怪光を伴って高速で泳ぐ物体が目撃され、その正体を突き止めるために軍艦が出動する。その艦には謎の物体を調査するため博物学者と従者、鯨獲りの名人の三人が同乗している。軍艦は謎の物体と遭遇、衝突される。その衝撃で三人は艦から海へ放り出され、損傷した艦は三人から離れて行く。海に漂う彼等をすくい上げたのは、あの海中を高速で潜る謎の物体であった。金属製の海に潜れる船、つまり潜水艦「ノーチラス」である。ノーチラスはその後、世界各国の海をまわり、海溝の深海を探索し、北極海の極点まで潜行し到達するなどの冒険を繰り広げる。
『海底二万マイル』が書かれた当時潜水艦はなかった。潜水艦がどんなもので、どんなふうに海に潜ってどんなふうに圧力に耐えるかということを、空想でシミュレートし、実現可能なものとして精細にあらわして見せた人はいなかった。後世、初の原子力潜水艦をアメリカ軍が建造したとき、その艦に記念として「ノーチラス」の名を与えたのは、ヴェルヌが現実になかったものを新たに作り出し、概念にしてみせた偉業と先見性をたたえたものである。SFは未来を挿入するというならば、ヴェルヌは確かに未来を小説の中で提示した。
 ウェルズの『深海潜行』では、やはり深海の様子が描かれる。ただここで用いられるのは潜水艦ではなく、深海探査の歴史のごく初期の時代で使われた原始的な装置である。ウェルズの装置では、深海の高圧に耐えるため、やわらかい詰めもので内張りをした中空の鋼鉄の球体の中に探険家が乗って深海へ沈んでいく。球体には錘がつけられており、浮上するときには錘を切り離す。錘を切り離す装置が作動しないときには、探検家は深海で破滅するだろう、と語られる。球体は艦から投下される。しかし探検家は、帰還予定の時刻を過ぎても海面へ浮上してこない。酸素が切れる時刻になるころ、探険家の乗った球体は海面へ帰還する。探検家は疲労し譫妄状態のようになっている。そして、彼の体験した沈降、奇怪な海底の様子、沈没した船の墓場とも言えるような光景とそこに群がる海底魚人の様子が探険家の口から語られる。回復した後、彼はとりつかれたようにふたたび沈降準備を始め、そして二度と帰ってこない。
 どちらも海の中のことをもっぱら語っているが、海の上のことを主に描いた作品としては椎名誠の『水域』がある。
『水域』では、地球の環境が激変した「破滅後」の世界が描かれている。陸地はほぼ水没し、異常な水流や生態系の栄える水域のみが膨大に広がる。そこでの日常は、食って寝て流れ人と出会って別れる、奇妙な漂流生活である。漂流する男「ハル」は、沈没寸前のオンボロ筏「ハウス」に乗って暮らしている。ハウスはわずかながら動力を持ち、ハルは残存高層ビルの残骸に出会うとハウスを操ってそれに取り付き、内部を探索する。
 ある日ハルは死人舟に乗った男に出会う。死人舟の男は酒を勧め、酔ったハルは乗り移られるカタチでハウスもろとも財産ごと騙し取られる。さらに悪いことに死人舟は滞留水域の酸混じりの水の中で停滞してしまう。飢えと渇きで苦しむハル。しかしわずかに残った力で魚をしとめ、滞留水域を脱け出す。死人舟は次に、倒木が膨大に寄り集まってできた漂流島ヘ吸い寄せられるように漂着する。島の岸辺の倒木は、渦と海流で強引に噛み砕くような動きを見せて複雑に動きまわっており、死人舟は粉砕されてしまう。ハルは漂流島での生活を余儀なくされる。ハルは、危険な動植物が隠れ住む漂流島の内部への探索をはじめる。ハルは、彼と同じように漂流島に漂着した女、ズーに出会う。
 ハルとズーは動力つきの新しい筏を作り、吸引力のある渦を作り出すその漂流島から脱出することに成功する。だが幸せな日々は長く続かず、ある日、武装船の攻撃でズーは殺される。生きて行く意思を失うハル。彼は打ち寄せる波の中で昏倒する。漂流するうち、夢幻の中で、ハルは、鯨よりも大きな巨大魚と交感し、この漂流世界の中で生きていくことについての約定を知る。虚脱状態にあるハルと筏を嵐が襲い、筏は破壊される。
 気がつけばハルは、何もない小島に漂着していた。小島を探索するハルは、ただ一人その島で生きていた少年と出会う。彼は緑色のカップを持っている。彼は憔悴したハルに、そのカップで水を汲んで差し出す。やがてハルと子供は共同で生活を始めた。ハルは再び筏を建造し、グリンカップと名づけた子供と一緒に海へ出ることを夢見る。
 海そのものが未知にあふれた新世界として提示されることもある。スタニスワフ・レムの『ソラリスの陽のもとで』は、惑星ソラリスを覆う海と、その海が持つ謎の特徴について淡々と記述されていく。『ソラリス』は、非常に奇妙で独特の新世界が提示されるが、そこで行われることは冒険ではない。純文学のような面――ロシア文学の持つ、内向的に自分の精神状況を独白していくスタイル――を用いて精神を掘り下げていく作業である。ソラリスは、思考する海であり、何の理由もなく無限の形態を形成し続ける、非生産的な奇妙な特徴を持つ海でもある。ロシア文学に通底する悲観と虚無は、ソラリスの海の行為の無意味さ、不条理さ、気まぐれにはっきり現れている。
 ソラリスは主人公の死んだはずの恋人をよみがえらせる。彼女は主人公の存在を内向的に吐露し、掘り下げ、暴露していく。『ソラリス』には冒険小説のような面白さはない、が、サスペンスのように常時取り巻く狂気感と孤独、内向性、それにじわじわと何かの価値観へと近づいていくもどかしい希望がある。

 海洋SFをこさえるには何が必要か? 現在の一般的な高校生とヴェルヌを比べれば、おそらく今の高校生のほうがずっと科学的知識はあるだろう。ただ、知識を運用する態度や熱意では雲泥の差がある。『海底二万マイル』に登場する世界各地の海の生物の描写は非常に精細でいきいきしている。彼自身はそんな遠方までいちいち行ったわけではない、おそらく博物図鑑の魚のイラストを飽かずに眺め、仔細に頭の中で泳がせて楽しんでいたのだろう。生物の描写はこどものような想像する力と熱意にあふれている。
 ウェルズの装置も、いかにして、生身の人間が到達できない場所へ、人間を到達させるかという点に、非常に気合を入れて作られている。おそらく彼はその装置を考案し、深海まで到達させることを楽しんだはずである。科学を使って現実に実現できるかもしれない可能性を大いに楽しんだことだろう。その態度はSFをこさえる上で重要ではないだろうか。新式の知識一切を備えていなくても、科学によって何か実現できるという気合と根性は必ず空想に生きた力を吹き込む。
 たとえ難しい科学知識がなくとも、椎名誠の作品は新世界を生きる臨場感に満ちている。ただし、椎名誠は生物の触感・存在感をダイレクトに伝える言語感覚に優れている。また、彼は旅行作家であるから当然、生き物の知識や生きているその様子、海山川森テント生活、そのほか旅行で何が起こるかということに非常に詳しい。
 知識と、それを隅から隅まで精査して楽しむ態度、それに、それを現す能力の兼ね合いによって作品への出力が決まるように思う。
 ジャンルを意識する必要はない。作った作品がジャンルを作る。
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※林さんより寄稿いただきました。ご協力ありがとうございました!

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